序文
教育課程審議会の答申と情報教育


1996年に発表された中央教育審議会の第一次答申は、21世紀を展望し、我が国の教育について、[ゆとり]の中で[生きる力]をはぐくむことを重視することを提言している。[生きる力]について、同答申は「いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自から考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」、「自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性」、そして「たくましく生きるための健康や体力」を重要な要素として挙げている。
この答申を受けて教育課程審議会は1998年7月29日に幼稚園、小学校、中学校、高等学校、盲学校、聾学校及び養護学校の教育課程の基準の改善についての答申を発表した。この中で、中教審第一次答申の示す主な課題に関する基本的考え方とし、(道徳教育)、(国際化への対応)とならんで、(情報化へ対応)をあげている。
(情報化への対応)の具体的内容としては、2003年度までにすべての学校がインターネットに接続できるよう計画的な整備を行なうのにともなって、小学校、中学校及び高等学校を通じ一貫した系統的な情報教育が行なえるように関係教科等の改善充実を図り、コンピュータや情報通信ネットワーク等を含め情報手段を活用できる基礎的な資質や能力を培う必要があるとしている。
学校段階ごとには、小学校においては「総合的な学習の時間」をはじめ各教科などの様々な時間でコンピュータ等を適切に活用することを通じて情報化に対応する教育を展開する。中学校においては技術・家庭科の中でコンピュータの基礎的な活用技術の習得など情報に関する基礎的内容を必修とし、高等学校においては、情報手段の活用を図りながら情報を適切に判断・分析するための知識・技能を習得させ、情報社会に主体的に対応する態度を育てることなどを内容とする教科「情報」を新設し必修とすることが適当であるとしている。
また、情報に関する教育の推進に当たっては、人間関係の希薄化や実体験の不足の招来など、情報化が児童生徒に与える「影」の部分に十分留意することが望まれることが指摘されている。

情報処理学会における「情報教育」への取組

情報処理学会は、1988年に研究活動の中心となる組織である研究会の一つとして、「コンピュータと教育」の研究会を設け、コンピュータと教育に関連する研究を行ってきた。また、大学における情報処理技術者の教育が時代の要請に答えられるものになっていない点を改善すべく、「情報処理教育カリキュラム調査委員会」を設けて、大学における情報技術に関する専門教育について、調査研究を行ってきた。その成果は1991年3月に発表された文部省委嘱調査研究の結果としてまとめられた「大学等における情報処理教育のための調査研究報告書」として結実した。この報告書は、その後情報関係学科が設立される際にはカリキュラムの指針として利用されてきた。
その後、文部省はひき続き情報処理学会に対して「一般情報処理教育の実態に関する調査研究」を1991年度に、「一般情報処理教育の在り方に関する調査研究」を1992年度に委嘱したので、これを受けて情報処理学会は「コンピュータと教育」研究会の連絡委員を中心に委員会を組織して、調査研究を2年にわたって行った。
これらの一般情報教育に関する調査研究の結果明らかになった事の一つは、大学で行なうべき情報処理教育のかなりの部分が、本来中等教育で行なうべきものであるということである。実際、先進国とハンガリーなどかなりの中進国が、1980年代には中等教育における情報教育の体制を確立している。
しかし日本では、中等教育において情報教育がほとんど行なわれていないために、大学で行なわざるを得ない。また実際、多くの大学で行なわれている一般情報教育は、ワープロ等の応用ソフトウェアの使用法を解説し、実習する程度のものであり、本来大学教育が行なうべき内容としては不十分なものである。こうした事態に対して、情報技術の専門学会として、本来行なうべき教育内容はどんなものであるべきかを検討した。
一般情報処理教育は、行なわれる環境条件が大学によって大きく異なるために、情報処理学会から提出された報告書では、具体的なカリキュラムの提案は行なわなかった。しかし、情報科学の立場から情報技術への入門教育の在り方について、基本的な方針は示すことが出来た。

初等・中等教育における「情報」教育の提案

情報処理学会は1996年に「情報処理教育カリキュラム調査委員会」の中に初等・中等教育分科会を設けて、大学における一般情報処理教育分科会の検討を発展させ、本来中等教育で行なうべき内容を中教審の中間答申を踏まえて学習指導要領の提案とその解説という形式でまとめられ、8月に文部省初等中等教育局長に提案された。この提案は同年10月から始まった「情報教育」協力者会議の中で議論された。協力者会議の第一次報告が1997年10月に発表されたことを受けて、1998年2月に再度「初等・中等教育における情報教育の提案」を文部省初等中等教育局に提出した。

試作教科書(仮称)の作成

教育課程審議会の答申の中で、情報教育にとって特に重要なのは高等学校に普通教科として、新教科「情報」が設置されることである。


(ア)情報化の進展を背景に、これからの社会に生きる生徒には、大量の情報に対して的確な選択を行なうとともに、日常生活や職業生活においてコンピュータや情報通信ネットワークなどの情報手段を適切に活用し、主体的に情報を選択・処理・発信できる能力が必須となっている。
(イ)また、社会を構成する一員として、情報化の進展が人間や社会に及ぼす影響を理解し、情報社会に参加する上での望ましい態度を身につけ、健全な社会の発展に寄与することが求められている。
(ウ)我が国社会の情報の進展の状況を考えるとき、情報及び情報手段をより効果的に活用するための知識や技能を定着させ、情報に関する科学的な見方・考え方を養うためには、中学校段階までの学習を踏まえつつ、高等学校段階においても継続して情報に関する指導を行う必要がある。

この趣旨を踏まえて、普通教科「情報」として、生徒が興味・関心等に応じて選択的に履修できるように、「情報A」「情報B」「情報C」の3科目を置いている。各教科の書容は、履修する生徒の興味・関心の多様性を考慮して次のような内容が想定されている。
「情報A」は、コンピュータや情報通信ネットワークなどを活用して情報を選択・処理・発信できる基礎的な技能の育成に重要を置く。内容は、例えば、情報活用における情報手段の有効性、情報の収集・発信・処理と情報手段の活用、情報手段の発達に伴う生活の変化などで構成する。
「情報B」は、コンピュータの機能や仕組み及びコンピュータ活用の方法について科学的に理解させることに重要を置く。内容は、例えば、問題解決におけるコンピュータの活用の方法、コンピュータの仕組みと働き、情報処理の定式化とデータ管理、情報社会を支える情報技術などで構成する。
「情報C」は、情報通信ネットワークなどが社会の中で果たしている役割や影響を理解し、情報社会に参加する上での望ましい態度を育成することに重要を置く。内容は、例えば、デジタル表現、情報通信ネットワークとコミュニケーション、情報の収集・発信と自己責任、情報化の進展と社会への影響などで構成する。とされている。
情報処理学会「情報処理教育委員会」初等・中等教育委員会(委員会名が改称された)は文部省への指導要領の提案を行った後、引続き試作教科書(仮称)作成ワーキング・グループを形成し、電子メールを通じた議論と折々のオフライン・ミーティングを通じて「情報A」「情報B」「情報C」のモデル教科書を作成した。半年間に送られたメールは600通を越えた。
教科書を作る作業は、本業をかかえた研究者のボランティア作業として行なわれた。限られた時間内の作業のため、全体としての統一はとれているとは言い難い。特に、高校生に理解され得る内容と表現に到達するには、更なる努力を長い期間に渡って続ける必要があると感じている。
しかしながら、教育課程審議会の答申にそった形の教科書の内容の一例を情報科学の立場から全体として示せた事には大きな意義があると我々は考えている。特に、一般にはあまり知られていないソフトウェア工学や情報システム学の知見をとり入れた問題解決のためのプログラミング教育は(「情報B」第2章、第3章)は、情報教育の中核を成すものであると我々は考えており、これを出発点として洗練された教科書にもっていきたいと考えている。
情報教育は情報科学者育成のためのものではないが、一方、情報科学を無視して成り立つものでもない。今後、教育学、認知科学等情報教育に関与するであろう関連分野の研究者や、現場の教員の方々の意見をとり入れて、21世紀の日本の情報教育を確立して行きたい。


1998年10月

情報処理学会

初等中等情報教育委員会委員長 大岩 元

コンピュータと教育研究会主査 武井惠雄




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